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イベント掲示板[連載]粕谷俊二のオフタイム採用情報


人間万事塞翁が馬
2014.05.25

 尊敬する先輩の口癖が、「人生はタイトロープ、レーシングドライバーは常にオンザエッジ」だった。これを聞くと、危険と背中合わせの仕事にあるからと捉える人が多いが、何度か死亡事故を目の当たりにしても、多くのドライバーがそうであるように、先輩は、自分だけは死ぬわけがないと信じていた。
 
 この言葉の意味は、長く選手生活を続けるためには、常にライバルに打ち勝たなければならないという緊張。そしてチームから高い評価を獲得するためには、リスクを犯してもスロットル全開でタイムアタックを行なう精神力。さらに、精密機械のごとくミスを許さない正確性。この三つのポイントを意識し、常に高い次元で持続させることを指しており、オンザエッジと感じていたのだ。

 日本を代表する国技といえば相撲。しかし、現在最高位となる横綱三人はすべて異国出身、何とも歯痒い事態にある。しかしながら、格闘技は実力の世界、強いものが上に立つことは道理。長い相撲の歴史において、日本人横綱がこれほど長期不在なのは異例なことだが、その理由の一つとして、現代の日本が抱える問題の本質が背景にあるように思う。
 
 何年か前のことだが、縁あってみちのく部屋の朝稽古を見る機会に恵まれた。
 
 早朝、まだ巷は薄暗い日の出前、案内を受け稽古場へ入ると、土俵には、凛として張り詰めた空気を感じたことが記憶に新しい。稽古場には一門が集い、しこ、てっぽうといった基本稽古から始まり、実践さながらのぶつかりに至るまで、4時間あまり。終わり間際には、息が切れて倒れこむ若い取的もいたほど厳しい稽古であったが、今では尊ばれることのない気合と根性で乗り越えるという、良い意味での日本的な精神論が継承されている数少ない場所が残っていることに何故か安堵したものだ。

 厳しい稽古を毎日、何年繰り返しても、横綱まで上り詰めることが出来る力士は、ほんの一握りだ。勝ち残るには、努力、忍耐、そして確固たる信念に裏付けられた強い精神力なしに勤まるはずもない。もちろん、体格や運動神経などの天分が必要となることは語るまでもなく、馬力のあるハワイアン力士が相次いで横綱へ君臨したことを見ても明らかだが、体格が有利に働くことは周知の事実である。だが、レースという戦いの世界で学んだ経験上、最も重要なことは、不屈の闘争心と技を研ぎ澄ます感性、そして絶え間ない稽古にあることは、間違いないと思う。

 野球選手としてトップクラスの結果を残し、監督としても日本一を勝ち取った人の言葉に「人間の最大の敵、それは鈍感である」とある。
 
 夢を明確な目標として定め、努力し、プロの世界へ辿り着ける資質があれば、競争によって磨かれ、生き残るために自ずと敏感になり、瞬時の修正能力が身につくもの。さらに、一流選手となれば、二度三度と同じ失敗は絶対に繰り返さないということ。確かに、モータースポーツの世界にあっても、予選でライバルを凌駕するスピードを発揮するには、想像力、勇気、そしてより繊細な操作が求められ、長丁場のレースでは、体力、そして刻々と変化する状況を敏感に反応、瞬時に判断、コントロールする適応能力が求められる。勝者に求められる資質はどの世界も変わらないということだろう。

 今場所から横綱へ昇進した鶴竜は、12年前の入門当初、目立つ存在ではなかったという。しかし、目標を同郷出身の横綱に置き、自分の弱点の克服と強みを伸ばす努力を日々怠ることなく、勝つために只管技を磨き続けた。それでも、思うような結果が残せない日々を過ごし、気持ちが折れそうになった時は、育ててくれた両親へ恩返しするためには、ここで諦めることはできないと踏ん張ったという。

 十六歳そこそこで遠い国から単身来日、相撲部屋の門を叩き、環境、習慣、言葉も全く異なる日本で、何の保証もなく厳しい稽古に耐え、強力なライバルを打ち負かし、常にオンザエッジで12年余り土俵に挑み続け辿り着いた横綱の地位。俺は切磋琢磨の結果という言葉が好きだが、横綱に上り詰めた男に最も相応しい敬称だと思う。

 日本は、豊かになり、裸一貫で成り上がるしか生きる証を立てられないといった、逆境に生まれ育つ子供が少なくなった。一昔前は、相撲部屋に入門すれば、毎日腹いっぱい飯を食べることができるし、親孝行も叶う。その一心で多くの若者が相撲道へ進んだというが、あまりに厳しい稽古に音を上げ、部屋を逃げ出す若者も少なくなかったようだ。
 それでも、鍛えられ、踏まれて芽を出す不屈の男の勢いは、これをはるかに凌駕する輝きを放ち、見るものに感動を与える技を捻り出し、力で押し切る横綱相撲を生み出す源であることは間違いない。

 だが、厳しい稽古が待ち受ける相撲部屋は、近年門下生を集めることに四苦八苦している。人材不足は相撲に限ったことではなく、厳しい世界へ自ら飛び込み、家族を支えるために成功を目指し、結果を残すことに喜びを覚える獅子の素地を持った子供が、日本に育たなくなっているということだ。

 新たな横綱誕生の影で、去って行く力士も少なくない。その中には、ブルガリア出身の大関、琴欧州がいる。彼の力士生活も決して楽なものではなかったと聞くが、「度重なる怪我に何度も挫けそうになったが、家族のために、ボロボロになるまで戦ってきたことを誇りに思う」と引退会見でコメントしていたことに感銘を受けたのは僕だけではないだろう。

 最近、中年になっても親の脛を齧り、自立できない男の転落話は五万とあるが、事あるごとに品格の欠如を指摘され、最後には一般人との喧嘩が原因で引退に追い込まれた朝青龍ですら、日本男児の責任感の希薄さに首を傾げながら、意外にも老いた親を養うことは子供の責任だと語っていた。

 遠く離れた異国で、単身活躍できるだけの根性の育成には、家族のために矢面に立つ親の姿、仕事が社会に認められているという結果を見せること、そして、家族だけの規律であっても、これを重んじる教育が重要となる。何故ならば、幼少期に逞しい親の背中を見ることは、人格形成の一部として、深く根付くからだ。

 個人的なことだが、27歳で国際レースに初優勝した時に掲げられた日の丸と、サーキットに響き渡った君が代は、苦難に満ちた選手生活を振り返るに、唯一無比の思い出となっている。海外へ出て日本人としての誇りに初めて目覚めたこの瞬間を、永久に忘れることはないだろう。

 親が規範として継承されるべき品格、謙遜、社会性が、共働きや核家族化によって、家庭で叩き込む慣習は消えつつあり、昔は、他人の世話をやく、うるさい年寄りが町に一人や二人はいたものだが、今そんな正義感に溢れる大人も、近所で見なくなって久しい。教育によって無関心な日本人を増やさないことが重要だ。
 
 今年、人類史上に残る功績を残した男がこの世を去った。彼の名はネルソン マンデラ。誰もが知る人種隔離政策アパルトヘイトから南アフリカを開放した英雄だ。
 
 参政権すら持てなかった黒人にあって、民主化運動の歴史は長く、壮絶を極めた。マンデラ自身も若き頃に反アパルトヘイト運動に身を投じ、1964年には国家反逆罪で終身刑判決を受けることに。その後、27年間の投獄生活を送ったが、人種差別に対する国際社会の糾弾もあって1990年に釈放されている。

 投獄中には、過酷な強制労働も経験し、体を病んだ時期もあったという。それでも闘争心は萎えることはなく、未来の国造りに欠かせない勉学を続けた。そんなマンデラの熱意は、いつの間にか民主化の象徴となっていった。

「和解とは過去を忘れることではないが、報復は何も生まない。許すことは、未来へ向けて一歩を踏み出すには欠かせない」

 こう語ったマンデラ。誰もが知る人種隔離政策アパルトヘイトから南アフリカを開放した一人の男だ。
 
 参政権すら持てなかった黒人にあって、民主化運動の歴史は長く、壮絶を極めた。マンデラ自身も若き頃に反アパルトヘイト運動に身を投じ、1964年には国家反逆罪で終身刑判決を受けることに。その後、27年間の投獄生活を送ったが、人種差別に対する国際社会の糾弾もあって1990年に釈放されている。

 投獄中には、過酷な強制労働も経験し、体を病んだ時期もあったという。それでも闘争心は萎えることはなく、未来の国造りに欠かせない勉学を続けた。そんなマンデラの熱意は、いつの間にか民主化の象徴となっていった。

「和解とは過去を忘れることではないが、報復は何も生まない。許すことは、未来へ向けて一歩を踏み出すには欠かせない」

 こう語ったマンデラは、誰もが予想した血を血で洗う内戦という最悪のシナリオへ移行する直前に、勇気と知恵をもって闘争を回避、南アフリカを平和的に開放することに成功している。そして、1994年、南アフリカ初となる全国民による総選挙で勝利したマンデラは、黒人初の大統領として、類稀なリーダーシップで国に大きな変革を起こしたことは言うまでもない。
 
 「世界を変える最も強い武器、それは教育だ」

 そう言って、心血を注いで行った改革の柱は、貧困から抜け出す術を持てなかった先住民族に希望の光を与えるために最も重要となる学校の設立であった。
結果として、アパルトヘイト時代には、50%にも満たなかった黒人の識字率は、現在90%にまで伸びている。

 無税国家論を提唱した故松下幸之助も、日本の将来に危機を感じた一人。私財を投じ、日本の未来を担う政治指導者を育成するためにと、塾まで立ち上げたのだが、「無税国家では選挙に通らない」と言い出す馬鹿や、塾を政界進出への踏み台に利用しようとする間抜けを見て、人材不足に幸之助は思わず「間に合わんな」とぼやいたという。マンデラは、政治家に成るために長きに渡り反政府活動をしたのではない。ただ、国を憂い、同胞に人として生きることが叶う社会の構築のために戦った。そして、その志はいつしか民衆に伝わり、彼を大統領へと押し上げたのである。松下が開いた塾の目的とは、政治屋や名ばかりの首相を出すことではなく、マンデラのように人望があり、視野が広く、刻々と変化する世界情勢を見極め、100年後の日本を考えて国を諌めることができる本物の政治指導者の育成ではないだろうか。

 「人間万事塞翁が馬」

 ここ数年、関係が悪化の一途を辿る中国だが、この国の格言には学ぶものが多い。これもその一つだが、平穏に暮らす中、ふと現れた馬が、福から禍、また禍から福へと突然運命の変化を老人に起こすことになるが、禍福というのは予測できないものであると、常に備えある老人は、これに動じることもなく平常心で過ごした」ということ。

 要は、いつ何が起こるかは誰にも予想はつかないが、万が一の事が起こることを想定し、日々鍛錬し備えていれば、狼狽えることはないという教えである。